★☆昭和四十年七月一日月並祭☆★
(録音途中から)真っ黒い雲利用して天に昇る。龍が天に昇るような心。好きな所にでも通うような心。子供の時にさあ旅行だ、遠足だと言ったような時には、前の晩からチャント旅行遠足の準備をいたしまして、いつもより早く休ませてもろうて、起こされんでもパッチッと目が覚める。そう言うような活き活きとした心、ね、そう言うような心で信心をせよ、そこでまず信心が、
好きにならなければならないんですけど、誰でも始めから信心が好きな人と言うのは、そうたくさんザラにあるもんじゃない、いや信心が好きで信心しとりましても、おー途中から嫌気が差しましたり、挫折したりいたします、あたくしの二番目の息子です、光昭が今度農学校へ行かして貰います。先生方でも近所の人でも、どうして金光様の息子さん農学校行かっしゃるちゃろうかち、
第一光昭お前はその、何にになろうと思うて高校へ行くか、と私が申しました。僕はお父さんの跡を継ぎたい、て言うことは信心が好きだという事になる。信心が好きならね、そんなら教祖の神様の御信心の在られ方と、これはおとうさんでも兄さんでも、そこん所を通れなかった所、そう言うならお前は本気で、通る気はないかと、教祖の神様は御承知のように、
お百姓であった、それこそ泥の香りがするような、ご性格が天地に真ひとつ貫いて、天地の神様が此の方金光大神あって、神が世に出たとまで称えられる。天地金之神と同根とまでも神様が崇めなさった。それを教祖の神様のあの言うならば、お仕事である泥の中からあの信心は生まれたと言うても言いんだ、私達が頂いている信心はそれなんだ。それでひとつの本気でです、
大体交友関係がのぞんでおった、それからもとのそんことについては、もう本当にそういうような気にならなければ、ならないようなお知らせなんか頂いた、そして農学校に行く事になった。それこそ鎌ひとつ鍬ひとつ持った事ないんですけど、それはやはり実証しなければなりません。農学校ですから、ね、そりゃもう肥やしあげをしなきゃならない。まいりましてから、なんにちめかでしたけど、
牛を飼わなければならない。所が中々牛が自分の言う事を聞かんのです。今日はもう危ない所で牛から突かれるとこじゃった、もう牛を取り逃がすまいと、一生懸命そうしとるうちに、もう牛から蹴られんばかりじゃった。教祖の神様は一遍で牛をお使いになった。どう言うような心でお使いになっただろう、泥干しをする時、なえを蒔かれる時、草をお取とりになる時、どう言うような心持ちで田の中に入り、
畑の中で作業なさったであろうか、そう言うような事を追い続けて、ひとつおかげを頂きたい。ですからえー只今??取り上げのやすうりがあり??、学校から帰りましたら、すぐそのまま宮崎さんの所へ、お願いして百姓の実習にやらせて頂いております。もうそしてその事を覚えようとその中から信心を得ようと、先日もチョットした怪我をして帰って来た、
今日もなんかリヤカーになんかハンドル取られてから、まあ足を挫いた?だからと言うてそう言うような事で、くじける事ではでけん、兎に角一生懸命テレビから、そしてこのタイルまで御用させて頂きながら、教祖の神様がお辿りになった所の道であり、教祖の神様はやはりこう言う事をなさったんだ、それを不幸にして兄さんもお父さんも通ってはいないから、
お前そこん所からひとつ信心を始めと、言うような事で長々?ございます。ですからなんにーも信心をさせて頂くからにはですね、本気でその信心によっておかげを頂こう、徳を受けようと、真実幸せにならせて頂こうと、念願させて頂いたならば、そう言う基礎的な所からです、繰り返し繰り返し信心の稽古をさせて頂こう、と言うまず、元気な心がいるのでございます。
お参りすりゃおかげ頂く、と言う飴玉ねぶるような信心では、おかげは受けられません。ね、段々信心が分かってまいります、ほんとに椛目の皆さんも信心がよー分かっておいでられる。ですからもう、えーまあ摂理とでも、申しましょうか、ね、深ーいご神意のほどが分かって来る。そして今までいけないと思うていた事はいけない事ではない、今までこんくらいこつだと思っておった事を、信心が許されるならと、たと言うような事が段々分かって来る。その頃から信心を割り切った所謂ドライな信心と言うか、そう言う信心にそのなって行ってはならん。
今日私ある方のお取次ぎをさせて頂いて、中々信心のやわかって、毎日参ってまいります。一昨日参って来なかった。で昨日私御承知のように、体が悪くて調度今日の四時頃まで、その為に信心いたしておりました。今度はもう体全体、五体全体がこの言う事聞かんのですね。そしてもう実にその深い気持ちがするんです。お広前ご無礼いたしまして、
もう朝の御祈念だけでおかげを頂いたんですけれども、おかげで四時頃から、スッカリおか頂いた。神饌の御用向きをさせて頂きました。そのような事です、その中に本当にいつも、昨日福岡の高橋さんが見えられてから、先生神様ご神夢ですよ、私に悪い時にそうそうこの前そんな事頂いたから、仕事ばっかりごとある、今日、今朝あたしご神前に座らせて頂きましたら、☆★「お酒の中毒患者が、
調度お酒が切れておるようなもんだ」と頂きました。本当にそう言うような、キハツ状態。もうとにかくにだらしゅうて、いただらしいような感じ。( ? )仕方のない。ここに一杯のお神酒を頂いたならば、シャンとしようと思うような感じ。して見ると私だっていつもかつも有り難いじゃない、その有り難い勿体ない恐れ多き、と言う三喜が欠けておるのである。私がいつもここに座っておる事が、
声をあげて泣きたい事有り難うなるかと思えばです、もう三十分間でも座ろう事なかちごとある事も、やっぱりあるち言う事です。早く交代が来てくれればいいが、と言う時もあると言う事。そう言うようなまあ、ひと言二言じゃありますまい、けれどもあたくしはやはり、そう言うような事と同時に御守護でもあったという事を実感させて頂いた。まあ今日私が昨日から今日にかけてです、二日間かけてですわたしの体が、
こうである事の方が、おかげであったと言う事が、先ほどわかったんです。わかればいよいよ深い話しもございますが、やはりご守護下さっておる。私がちょいと??例えば今日善導寺のお月並祭ですけど、兎に角お月並祭も出来ませんから、今日熊谷さんやら関さんや家内を先頭に、おかげを頂いた訳なんです。と言う私がよければ私が出なければなりません。
けども神様は出しちゃならん、と言うようなご神意ご都合が、今日あったと言う事を思うと、やはりご修行であったと言う事。そう言うような様々な事でございましたが、そんな訳でございましたもんですから、昨日申しますある方が、毎日参って???おそう参ってきた。私が休ませて頂きよったら、そこでお取次ぎ頂いておられた。久保山先生のあの言葉激しゆう、一生懸命御理解なさっておった。
今朝から参ってきてからです、??最近はどうも元気がございません。先日息子が大阪の方にいっとります息子が、??佐賀があんまり良い事がないならば、ご両親ともこちらの方へおいでになりませんか、親子4人でどうやらやって行きましょう、と言う手紙がきとったから。まだ息子のが所??いっちょそんな気持ちでおったけど、こうお商売が不信であったり、特に商売しておりますから、おしめりばっかりするので悪いし、憂鬱な悶々たる毎日を送ってついそう言う気になって、
その事を今日久保山先生に、お伺いさせて頂いたら、ね、久保山先生からコンコンと御理解を頂いてから、思い直しましたが出来ましたとこう、ね、そりき私申しました。あんたねそんくらいの事だったかと、あたしあんたと心中したちゃよかと思いよった、(笑い)ね、あんたがあたしに一生懸命なって下さるなら、あんたと一緒にわたしゃ心中しよかと一生懸命思とるとに、
あんたが例えば雨が降ってから、何ち正月できなかった事ぐらい??????????聞いたらあががたしゃがっかりするよち、言うたら先生涙流してから、?先生元気だして帰られた。あたくしはその事だけではありません、皆さんのひとりひとりが、ね、椛目に本気で皆さんが打ち込んで下さるならば、あたくしの信心に皆さんが本気で打ちこんで下さるならば、皆さんと一緒に心中する気持ちでおります。
ね、信心の稽古はして貰わなければなりません。そこを通らなければ、分からない事があるから、今日もある方がお参りさせて頂いて、その方も信心も何でも分っておられます。おかげも受けておる。もう本当に言う事もする事も、なるほど信心になって行きよります。椛目の金光様の信心の言うなら、手本と言うてもよいほどの信心もしております。そしたら参ってきて頂きます事がです、
アジサイの花がきれい、あれにはイッパイ調度この甘茶のような、花が調度大きな花がついてるでしょう。あの葉がひっとつも綺麗なとこ頂いた。葉のそのものが和賀心。自分の心そのものがいつも葉、これが和賀心であろうか、和らぎ喜ぶ心であろうか、調和の取れた心であろうか、イヤ不調になったならばこれを調和を保たせて貰う。和賀心がけ和賀心にならなならんと言う、
精進も努力もまあ言うならばしておるけれども、かげたものがある青い紫、どうでしょうかね、病気で顔が青ざめている時、はあー兎に角顔が青ざめておる??、(笑い)そんな風には申しませんですもんね、色青ざめてと言う事なんです。それできてもうその若葉木の葉がです、ね、言わば新芽が出てもう活き活きとしておる。青々としている。ね、あれを色青ざめてと申しましょう、
今日チョット窓??木の葉が色青ざめとるち、所がです私がその事ご心眼頂きますとです、いかにも色青々としとるようだけど、心は病人のそれのように、青ざめておると頂きました。活き活きとしたのではなくて、心が青ざめておるのだ。信心は分っておる、ね、難儀なら難儀たたんように心平静のようにあるけれどもです、それでもね一輪の花を皆んなが眺めた時にです、
いい花だなとは申しませんでしょう。その花に活き活きとしたそれこそ、青々とした葉がついておって、始めて本当ないい花だなと言う事になる。今度御理解をアジサイが調和と言う事、ね、家庭が円満な家庭の人達はおかげ頂きますと、あのアジサイの花のお知しらせを頂きます。様々な色がこう手紙のように集まって、ひとつの調和を保っておると言うのでしょうね。
自分の心の中はそういう風に、平和平穏であると言う事。ね、ここん所がです私は活き活きとした葉が、ついておるような信心させて貰う。今朝から皆さんにお話した事でございますけれども、ここの所を自分の心からそれが、そう出てこなければ出来ない。うちに原因があったり、忙しかったりしたのであっては、ここに参って来る事は出きんから、ね、平穏である時に無事である時に、
どうかシッカリ信心の稽古をしておってくれと、と言うように神様は御教え下さっております。ね、だからそう言う信心を繰り返されて、日頃一生懸命信心の稽古をさせて頂いて、うちに病人があったり、さあ??言ったようにいそがしい時には、うちで一生懸命御用させて貰う。その代わり平穏無事に一所懸命??信心の稽古させて貰う。ね、そう言う信心が続きましたら、
神様は決してそれで良いとは仰ゃらない。そこで信心が段々出けてまいりましたら、私の信心はこたえん事信心に段々なって、参りますとです言わば這えば立て、と言う親心の働きと言うものが始まってくる。これで良いと言う事は決してない。その頃からあたくしはいよいよ元気な心が必要だと思う。ね、信心の????この頃からちいったぼうけるとなった、こんとよのに?いそがそかとに、
朝の御祈念にまだ何時間ちこら??普通なら?兎に角信心する者ばっかり、?信心のないような時代が、イヤそう言う所を神様は求めたまう。昨夜今田植えで大変どこも忙しいんですね、夕べ久富さん達が見えたのも十一時頃だったでしょう、私が和服しとるもんですから、もう兄弟で久富先生三人でもう一生懸命、ま問題さすったりして下さったんですけれども、中に先生今日こうだいなおかげ頂きましてから、
長男の邦夫が、ね、なんかぽっとこう河ん中飛び込もうとした下に、そのビン切れがあったガラスの、それにあの水でながーくなった足を踏んづけたもんだから、もうザクロのようにこうやって、足を踏んづけたんですね。ですからもう言うなら家の中心で、働かなければならない邦夫さんが、そのまま車に乗ってうちに帰ってしまった。あしたもう一日で終わるのに、これは先日でした、
まとう?の時でした。始まっても?言うのにいさおさんの車が、動かなくなった。さあ取り上げだ、植付けだと言う時にです、これは去年あたりから、堤さんの信心振りにそれを感じるんです。もう神様が堤新吉の信心を、このままに置いといては勿体無い、もういちがんさあここまで来い、とか言うてそのここまで来いと言うて、神様が??這えば立てと言う働きが始まってるような、
気がするけども、第三者が見るとすぐ分るんだけど、さあ本人自身がそこん所わかならいかん、なんで分らんかち言うと、去年よりいそがしかて迷うてしもとる、今??その事だけで一生懸命なっておると言う事、これから先はですね、先生は無理なこつばっかり言いなさると言う話しになるんですけども、ね、教祖の神様はです、ね、いそがしい時には参ってこんでもいい、
病人をほってくるわけにはいかんから、日頃信心の稽古をしておけ、そん為日頃信心の稽古しとるんだから、と言いたいとこなんだ。ね、いさむさんにした所で繁雄さんにした所で、堤さんにようした所で、三人のこの信心を取り上げて言うならばです、今椛目の基本のような信心をしておるような人達ばっかりなのだけれど、神様はもうボチボチ言わば徳の世界、
本当の信心の有難い信心が分らせて貰う所の、おかげの世界へもう一歩近づけよとこう言うて下さる、気がするんだけど、信二さんそうしなさい、繁雄さんそうせな言かんばのと言うたんでは、いけないと言う事。本人がそうさせて頂かなければおられないと言う内容が、段々育ってこなければならない。ね、まあ中ばでございますけど、圧し?やしをいたしますけど、
杉山光男さんのお父さんが、今朝七時にお国替えのおかげを頂かれました。また神習な先日から、あー結婚式がございましたね光男さんの、そして新婚旅行から帰らせて頂いた、それから危篤状態にならう、ここで結婚式がありましたが、そのままをテープに入れてからここの模様を父親に聞いて貰う、花嫁の姿兎に角まあ元気なうちに、お父さんにもう休んでおられましたけれども、
見て貰うと言うてから、そのまま式場に行く宴会場に行く前に、お家に帰られると言うような方なんです。皆さんもご承知のようなその、実意丁寧な信心をいたしております。言うなら秋永先生の家内の父親になります。ね、ですから今日例えば秋永先生は、あたしは見えない?もんと思っとったんですけども、ね、お届けもございますし、またあたくしがおっても仕方がないから、
お祭りを頂いたらすぐ帰って来るからと言うて、えーあちらを出てまいりました、ね、これは例えば出てこなくても、誰ーもが見とめる所、と言うて朝のご祈念にお参りが出来ないとか、お日参りが出来ない、それは誰でもそれはそれが当たり前と思う所、けれどもですけれども、そこをです、ね、やがはりチョット親先生の顔を見らづにはおられんと言う所まで、
お互いの信心が出けてまいりませんと、今信心は出来ません。そうでしょうが、ね、それ以下でも信心ができますか、そこまで信心の心と言うものが高められてから、初めて何を置いてもと、そこまで和賀心の安心?よりもです、させて頂かなければならない、三代金光様ではないですけれども、ね、始めから元気な心で、信心しようと思うような尊い信心をです、三代様御自身が、
身につけておいでられたとは思われないけども、13歳の御年から、御結界奉仕をなさってから七十年間、始めの間は辛うて辛うてよう泣きましたと仰る、そりゃそうだろうと、ね、けれども親様が座っておれば楽じゃと、仰せられたから、親様の取ったひと言をです、信じきって泣く泣く座っておったと言うておられます。ね、そう言う辛抱そこで親様が仰ったから、
親様の事それを一生懸命に守られる事の親孝行、ね、皆さんどうでしょう、神様と言わば信心とあれとこれとをひとつ比較対照して見てごらん、おかげと神様どっちがいいじゃろか(笑い)、いっちょ考えてご覧。商売と神様どっちがいいじゃろか。ね、そう言うようにそれは理屈を申しますとです、商売と信心がこう離れちゃならん、それがひとつになる事が信心だ、
お金と財産と信心がひとつになると言う事が、信心だ所謂?それ何処じゃないのですけれども、そこん所の本当のおかげを頂かせて頂く為に、ここからは馬鹿になりきらないけません。そしてお金よりも仕事よりもやっぱり、神様の方がいいんだ信心の方が好きだ、と言うところにならなければいけません。ね、商売に熱心な人は申します、ね、あたしがこの商売に一生懸命打ち込んでおるその事が、
信心なんだから、立派な事です。嘘じゃありません。ね、見上げたもんです、けれどもそれでは今日わたしが申しますようなです、所とは大分もどってくる訳なんです。もう??信心なんだから、ね、例えて申しますならばです、わたくしの世界中で一番最愛と言うたら家内、一番大事なものと言うたら親だ、ね、いつも申しますその事なんです、けれどもねどんなに世界中で一番大切な親であっても、
神様のおおせには背かれない、所謂親よりも神様の方が好きだと言う所にならないといけんのです。ね、どんなに最愛の家内でありましてもです、ね、親には変えられんのであり、神様には変えられんのであると言うのであります。ね、あたしは金を愛し続ける事が信心なのだから、あたしは親に孝行する事がそのまま信心なのだから、立派な事なんです。けどもこれだけではです、
おかげがそれだけなんです。わたしゃ仕事そのままが信心なのだから、けども仕事よりもです神様の場合、いよいよ例えば秋永先生が参って見えられましてから、言うておられます、御造営が始まるまで全然親先生お商売て言うお商売しとらんのですよ。今日も何時頃ですか、手形があるんですけれども、兎に角チャント?やりっぱなしなもんですから、こら少し本気で、
商売させて貰わないけんと思うんですけど、と言う話しをしたんですけど、秋永先生だってやや商売よりも、神様の方が好きになって、来たと言う事が言えるんじゃないでしょうかね。所がです今日突然長男が帰って来た京都から、それでお父さんが出来ない所を、ひとつこれからその僕が、どうでもやらせてもらわなならんと、言う事に言わばお繰り合わせ頂かなならんと私は思うております。
京都でやはり京染めの事の勉強に行ってるんです。ですから先程その事をお届けありましたから申しました。三年間みっちり京染めの勉強身に付けて来た。だからそれに磨きをかけないけんぞ。と言うのはそれを信心によって磨きをかけるんだこれからは、?おかげを頂かせて頂きましてです、またの教えに十分の徳を受けようと、思えばままよと言う心を出さなければ十分の徳は受けられないと、
ままよとは、死んでもままよの事ぞとこう、ね、死んでもままよの事ぞと言う程にです、これよりもあれよりもやはり神様のほうが、信心の方が好きだと言う大事だと言う所に立った時にです、今のあたくしに、おうふく?しなさったか、だから私そげん言うたら家内と別れさせなさったか、と言うとそうではない、家内も愛し続ける事が出来、親にもより孝行し続けさせて頂いて、
本当の意味合いにおいての、愛し続け本当の意味合いに置いての親孝行がでけて行きよるでしょうか、ね、せっかく椛目でご信心をするんでございますから、ね、あたしゃ例えて申しましならばです、勇さんと繁雄さんと堤さんの例を取りましたらです、どんなに人を取り上げに?一生懸命であろうがです、ね、二時間なら二時間三時間なら三時間、と言う時間がです、
好きな信心の事にかけられたからと言うて、決してマイナスにはなりません、けれども言われたからと言うて、そりゃマイナスになりますよ。そう言う心持ちになる事を願わなければならない、と言う事そうしなければおられないと言う事。そこにもうわたくしとでも、あんたとならばいつ心中してもよか、と言う事になってくるじゃないでしょうか。いそがしか時だけなら、
先生と一緒に心中したちゃよかけれども、いそてしだいなんです。?ところがですね、あの永田先生が見えてから仰るのに、いややっぱり先生あのお屋敷は、どうでもこの電車道理になりますよ。むかいの金光様が合楽教会がここにでけるげな、と言うてですまわりの近所の、お百姓さん達がもう万歳万歳ち言いよる所を頂いた。なんてあげん喜びござるやろか、
と思いよったら、椛目の金光様がバス通りに、出てこらっしゃったから、あの筋の土地代が上がったと言うて、万歳万歳(笑う)ち言いようとげなたい、先生ひがし向きひがし向きて、言いよんなさるけども、北向きになりますよち、そしたらやっぱ北向きになった。今日ここに見えてから、先生今度またお広前が変わるんですか、ち言われる。なしですかち言うたら、
もう中身が全部こう見事に替えらたとこを頂いた。丁度先日説明会を、あたくしまとめておりましてから、古屋さんからその説明をして頂いた、ゆっくり田中さん?検討して、ここをこうしてどうとは言わないですよ。ここはあれがないですかと言ったような、あー話し合いをいたしましたんです。そしてからまた頂いておられますけどね、ここにおる間は調度おしのようなものだ、
椛目の信者全部が、今度合楽に移る時にはですね、そのおしが奇跡的がしか時にはあっち(笑い)の方、これではあたしのやっぱり??行事られませんよ。そうでしょうが、そこでです、理屈ではない所の所謂、それ以前までの信心は誰でも合点する合理的な信心なんです。ね、道理に合う合理的なんだ、ところがあたくしが最後に申します所は、もう超合理的なんだ。そこから活きた神様の働きをいよいよ現すことが出来る。
身もお徳が頂く事が出来る。日々やむ事のない所の信心に、おわして頂く事が出来ると言う事。例えて申したまにはです、例えそう言う有り難いを、段々分からして頂くようにならして貰い、これだけ無尽蔵のおかげを頂いて、わたくしでもです、ね、有り難くなくなってしまうような事があるんだけど、そう言う時はチョット酒に中毒したような人が、酒に切れたような状態で、
やはり信心しなければならないんだけれど、その事その事その事をです神様が、活用して下さる。そしてのちに分からして下さる事は、あれも神様の御修行の中にあったんだ、と言う事が分かってくる程の、段々おかげになってくるんです。ね、きょう?の例えでした、山口の永田先生、古賀先生の叔母さんに当たられる方ですね、永田先生が見えられました。ここのあのお土地を買われる時分の、
時からお知らせを頂いておられる。上の方へあの算段てつきおうてかっなおかげ頂いて、ものを言うようになると言うお知らせを頂かれた。ね、言うほうがです、ね、おしがもの言う程の奇跡が現われなければ、今度の椛目の御造営は出来はしません。ほな奇跡はただまっとったからと言うて、起こるものじゃありません。お互いの真心一心が、ね、御造営の事に真、
真心を捧げぬく、つかせ?つくさせて頂いて、勢信心のおかげを頂いて始めて、言わばおしがもの言うなおかげになってくるんじゃなかろうか。ね、ここでは言わばだんまりで、もう兎に角発言権がなか、あちらに行ってから、まあ仮布教所と言う事になり、教会と言う事にでもなりゃ、段々椛目は椛目としての、言い分を十分に表現でけれるような、お繰り合わせにもなって来ると、
言うような事でもあろうと思います。ね、けれどもです問題はそのおしが、もの言うほどになる奇跡が、現われなければならないと言う事。そうでしょうが、ね、現在あたくし共大体の力と言うもの二千五百万円、ね、この間発表してから開票して見て、それも?分らんのですよ、けれどもこの二千五百万円と言うものだけは、もう当然おかげ頂くものだとして、
委員長を始め企画の方達は、所謂企画その計画を練って行きよる訳なのです。ね、あとの例えば専門学問と言う体験はです、やはり特別の奇跡的な所謂おかげにでも、なってこなければ出きる事ではないと言う事、くじけども?ね、二千五百万円の二千七百万円のと言うとりますけど、大変な金なんです。そういうお互いがです本気で、元気な心で信心させてもらわなければいけない。
あんたは神様とお酒はどっちが好きの、わたしゃやっぱ神様も好きばってんお酒も好き、そして?酒も思いきらん神様も思いきらんち、ね、?神様とどっちが好きの、わたしゃもう神様はもうやめられんばってん?あまかともやっぱやめられんばの。その調度あまかった神様の??なるとですよ。ね、??神様は同等だと言う事になるのですよ。それではそれだけの信心なだけのです。
ね、神様がそれを止めなければと仰るなら、いつでもあたくしは止められるだけの信心させて頂く。どう言う好きな事であっても、これだけは自分の命のように大事にしておるようなものであっても、それを離してからでも、あたしはあなたの方が好きだと言う事になって始めて、神様がお前と一緒に心中でもしようかと、言うような所まで行動にもなって来ると思うんです。
ね、あたくし共の信心がです、果たして、ね、あまいもんとか、辛いもん例えば例を申しましたら、皆さんの一番好きな物と、あたくし共が頂いておる信心神様と言うものを、どの程度に頂いておるかと言う事を、わからして頂いて、本気で?投げ捨てて神様一途におかげ頂かせて貰う時に、わたくしは言わば家内も母も父も、神様の仰せには背かれんと言うて、
神様の方だけ走ってから片一方の方は、親不孝になって家内とも別れた、と言ったような事じゃなくてです、そう言うおかげをわたくしが頂いているようにです、酒好きな人には酒、甘いもの好きな人には甘いものもです、どうぞ頂いてくれよと言わんばかりに、頂かせて下さるおかげを頂かせておる、神様に本当の思い真心の分って貰う為には、ここにひっとり?の今までとは、
違った意味合いに置いての元気心、信心が段々分っておるからと言うて、アジサイの花がこん?ある信心だけではダメだ、これに活き活きとした、葉がついとらなければ、所がその葉の方は、言わば色青ざめておるような、病人のような元気な信心、そのような信心ではダメだと、と言うてそこん所はです、一辺にそうならして頂くと言う事はでけんのだけれども、
先生があー仰るのだから、泣く泣く辛抱しいしいにと言ったような所をです、お通りになられて始めて、ね、あたしが頂いておるおかげ、ま、それを大きく美しく言うならばです、ね、ほしい物もなくなり思う事もなくなり、ただ有難うて有難うてと言ったような世界がです、開けて来る事を私は確信いたします。おかげをいただきました。